今回のインタビューは、1970年代に少女マンガ界に革新を起こし時代をリードしてきたと評される『花の24年組』の代表的作家である竹宮惠子さん。子ども時代のこと、マンガを描く喜び・苦労、大学でマンガを教えていることについてなど、お話をうかがった。

――竹宮さんは、どんな子どもだったんですか?

 あいさつができない、言葉数の少ない子どもでした。社会的な儀礼に頭がまわらないタイプなんですよ。親戚や学校の先生に会っても、声をかけられるまで黙ってる。それが中高生になってもあいさつができず、コンプレックスになっていました。

 ただマンガを描くのが好きで、「うまいね」って誉められるのが、一番うれしかったんです。
 私は社会的な儀礼に弱いし、言葉も器用に使えませんが、マンガなら私の言葉を伝えられます。私にとってマンガは「言葉」です。

――上京のきっかけは?

 ずっと田舎で暮らすんだと思ってましたが、高校時代に『少年のためのマンガ家入門』(著・石ノ森章太郎)を読んでガラッと変わりました。「本気でマンガ家を目指そう」と鼓舞されたと同時に「東京に行かなくては」と覚悟したんです。当時は上京しなければ勝負にならなかったんです。10代の女の子にとって、大変な決断だったと思います。でも、当時の私にしてみれば、東京は「石ノ森章太郎さんのいる場所」。石ノ森章太郎さんがいる東京だから愛することができたし、勇気も涌いたんです。

◎進学かマンガ家か

――親は納得しましたか?

 とんでもない、「そんな水商売をさせられるか」って言われました(笑)。ショックでしたよ。でも、私も独立できていないから、仕方なく大学へ進学しました。

 大学か就職か迷ったんですが、正解でしたよ。どこに就職しても、あいさつのできない私だから、どうなってたことだか。大学では続けることができたし、幸いにも在学中に連載デビューすることができました。

――デビュー後の苦労されたことは?

 デビューから数年後、長いスランプを経験しました。当時、マンガのなかで自分自身を表現する時代が来ようとしていました。それ以前のマンガは、うまく作品さえつくれていれば、小手先でも勝負できたんです。私もそうでした。ところが、もうそれでは立ちゆかない。私も変わることを迫られました。

 とはいっても「私を出す」マンガなんて描いたことがない。どうすればいいかわからない。引き出しも少ないので、苦しかったです。マンガ家志望の友人なんかは、映画や文学が好きで、書斎のような部屋でいつも知識を深めている。一方の私は少年誌も少女誌も青年誌も読みますが、これってマンガだけでしょ(笑)。マンガ以外は知らなかったんです。

◎何を描いても…

 もうすっかりスランプにはまって、毎回「どうすれば」と思いながら、いろんな挑戦をしました。最大限の努力はするんですが、結果は同じ。描いたものがダメなことはわかるけど、何を変えればいいかわからない。3年間ぐらい、のたうちまわるような苦しみで、自律神経失調症になって、車に乗ると酔ってしまい、体重は40㎏まで落ち込んでいました。そんな状態で描いていましたが、読者は絶対に何も言わないんですよ。たんに受けいれてくれて、アンケートでも人気を得たりする。人気とスランプは関係ないんです。

 私にとって幸いだったのは、私が誰よりも先に「私の作品」を悩めたことでした。私が気づいてダメを押せた。苦しい3年間でしたが、重くつらいのは悩みをしっかり掴めていた証拠だったと思っています。

 当時の作品は、いま見ると恥ずかしいものですが、それでも結果を残し続けたのがよかったんだと思っています。

――マンガを描くなかで楽しいことは?

 やっぱり発見したときの驚きですね。発見がないとマンガを描くのが、ただの仕事になっちゃうから(笑)。
 『イズァローン伝説』を描いたときも、最初は「ファンタジーはイヤだな」って思ってたんです。もともと現実的な作品が好きで、ファンタジーの「なんでもあり」が好きじゃないんです。でも、「なんでもアリだからこそ、きちんと世界を構築しなくちゃいけない」と気づいたんです。それがわかってからですね、おもしろかったのは。気づいたのは、連載の中盤ぐらいでしたけど(笑)。私は描きながら勉強するタイプなんです。

――しかし、長年続ければ発見も少なくなりませんか?

 そうですね。「最後の連載かな」と思って描いた『天馬の血族』も、苦労したのはそこでした。絵を自由に扱えるがゆえに慣れた線しか描けない。予測可能な絵にしかならない。そこにイライラを覚えて、丸ペンのペン先を1mmぐらい切って使ってました。そうすると、とっても使いづらいんです。これは「使いづらい」のが大事で、大リーグボール養成ギブスみたいなものですよ(笑)。技術がないのに「伝えたいことがあるから無理やり描く」っていう状況、そのほうが表現者の気持ちが出るな、と。本当にマンガは私自身を発見させてくれる道具です。

――大学で教授としてマンガを教えていますが、どう感じられてますか?

 教え始めてから、5年間経ちましたが、自分のスタンスをどうつくるかという時間でした。いろんな実験をし、授業を見直し、ようやく自分と「教えること」が結びついてきたな、と感じています。

 ただ学生を見ていると、気になることはありますね。どうしてもハングリーさが見られない。私たちの時代、進学といえば親への負担を気にしましたが、それが「当然」になっている。マンガ家になることも、就職の求められている世界ではないのに、その自覚が足りない人もいる。

 だから、私の最初の仕事は自覚できるよう鼓舞することです。

◎遊びから多くを学んだ

――不登校についてはどう考えておられますか?

 大学生のなかにも不登校はいます。大勢のなかに入ることがつらい人や親との問題が解決されていない人、個々に事情があると思います。ただ、それは大学だけで解決できる問題でもありません。

 これは不登校にかぎったことではありませんが、社会的に「教育は何なのか」をみんなで考えるべきだと思っています。戦前の教育は、よし悪しは別にして明確に目的が決まっており、大人になる時期もハッキリしていました。

 それが今は大人になる時期があいまいになり、教育の目的がなんなのかもハッキリしない。どこか動物園の動物が子育てを忘れてしまったのと同じような感じです。

 私は「発見する歓び」を遊びのなかで培ってきました。ちいさいころから、一人で遊び、みんなで遊び、多くのことを学びました。

 いま大事なのは、教育を体系的に考えていくことじゃないでしょうか。

――マンガ家になりたい人へ一言。

 おもしろいマンガは、自分の思っていることを相手に伝えることが基本です。どんなことでもわかるように、あまり誤解なく伝えることです。小細工をすることがおもしろいマンガをつくることではありません。

――ありがとうございました。(聞き手・高橋典子、石井志昂、前田裕二)

(たけみや・けいこ)
1950年徳島県生まれ。68年「りんごの罪」でデビュー。代表作に、小学館漫画賞の受賞作である『風と木の詩』『地球(テラ)へ…』をはじめ、『イズァローン伝説』『天馬の血族』など。2000年より京都精華大学でマンガ学科の専任教授を務めながら執筆を継続。近刊に『平安情瑠璃物語』(小学館文庫)、『ブライトの憂鬱』(全2巻・白泉社)など。

※2006年2月1日 Fonte掲載