最新号トピックス

2008.06.30

石川憲彦さんインタビュー 発達障害

――発達障害が脳機能の問題とされている点について、どのようにお考えですか? 発達障害だけじゃなくて、いまの社会の潮流では、あらゆることを脳内現象で説明しようとしていますね。いまや老化現象ですら、脳内現象です。しかし、これには医学的にみても大きな欠陥があります。 たとえば自閉的な子は心が通いにくく、マイペースで、他人のことをあまり考えないで、自分独自のアイディアで生きている傾向が強いと言われます。それを「心の理論」では、特定の脳の部位の問題として説明している。しかし、脳機能なんて、いかようにも解釈できるんですね。ほんとうは脳機能の問題なんて、あってないようなものです。 ただ、そこで問題なのは、微細な脳機能の問題という捉え方をすれば、あらゆる問題で障害の幅を伸び縮みさせることができてしまうことです。

◎必要なのは状況支援

私は、人間に支援は必要だと思いますが、それは状況支援でいいわけです。たとえば、バスの段差をなくしたら、車イスの人だけじゃなくて、老人や妊婦さんも助かる。それを障害の問題だとしてしまうと、対象を狭めてしまいますね。 発達障害でも、たとえばアスペルガーの子は物事の全体が見えてないと混乱するから、授業の最初に説明をしてあげれば落ちつくと言います。だけど、それは、どの子にとってもいいことでしょう? 状況支援と言うと、「費用がどんどん膨らんでいったらどうするのか」と言われますが、それは逆で、問題は働けない人が増えていく状況のほうにあるわけです。障害者が働ける状況をつくっていく支援があれば、特別な支援は減っていきます。 人が人を助け合ったり、支援するというのは、基本はお金じゃないですよね。それでも、いまのところはお金でしか補えないことがあるなら、それは疾患別ではなくて、状況によって、誰でも困ったら受けられるようにすべきです。 ――昨年4月に発達障害者支援法が施行されましたが、この問題点は? いろいろありますが、何より問題なのは、当事者不在で進められた点ですね。 精神科の疾患は、基本的にDiseaseではなくてDisorderなんです。Diseaseは、みずからがイージーじゃないということ。気分がよくなかったり、痛かったり、熱があったりして、いつものようにできないということです。これに対してDisorderは、オーダー(命令)どおりいかないことです。命令に従えない、規律を守れない。そこに対する治療は、外からコントロールすることになる。

◎誰のニードなのか

発達障害者支援法でも、誰のニードで、誰が主体で決めてきたかが問題ですが、そもそも法の成立過程からして方向が決まってしまっています。 国は発達障害者の数を人口の6%と見込んだわけですが、そうすると日本における発達障害者の数は約800万人になります。それだけの当事者をさしおいて、医者のような専門家と、親の会と、一部の議員で法律を決めてしまった。つまり、当事者は自分のことを考えることができないという見方をしているわけです。たしかに、重度の障害者で本人の意志を表明しにくい人はいます。その場合、やむを得ず親や周囲が代弁せざるを得ないというのはわかりますが、今回の場合は、そういう話じゃないですからね。 当事者が本当に望んでいるニードがあるなら、当事者は結束します。そういう当事者の声にもとづいて、制度を論議しないといけない。しかし、それに対しては「自閉的な人や発達障害の人は団結するのが下手なんだ」というわけです。これは、すごい論理です。 また、支援法のなかには「犯罪等により発達障害者が被害を受けることを防止する」という一文がありますが、これが直前の案までは、加害者になる可能性を示唆するような文案になっていました。この法律がどういう目線でつくられたかがうかがえます。 結局、この法律は、財務省で大枠の予算枠が削られ、全体のパイが小さくなるなかで、各省庁のあせりと物取り意識で、できた法律です。 しかも、この法案に対しては、疑問や反論の声が、どの方面からも出なかったんですね。それくらい、みんなが物取り主義に追われているとしたら、これはピンチですね。 ――特別支援教育については、どのように? 発達障害者支援法が通ったことで、特別支援教育は、ひどい方向に動いています。もともと危うさはありましたが、それでも当初は、特殊教育から障害児教育と変わってきた流れを変えて、障害児の教育ではなく、みんながいっしょに学ぶインクルージョンに向けていこうという話でした。支援のいる子には支援を、しかし基本は同一教育という考えで「特別支援教育」となったわけです。 ところが支援法が通ったことで、特別支援教育は、軽度発達障害児だけが焦点になったんです。これでは発想が逆になって、今まで普通学級で学んでいた子どもたちを、特別支援学級に抜き出して、そこで教育することになってしまっています。これによって、障害者を地域へという方針まで揺らいでいます。 子どもたちは総体としてのニードをもっているし、そのニードは、構成メンバーによって変わってくるものです。ところが、特別支援教育は、集団や母体への支援ではなくて、個人への支援で、支援の方向が個別化されているんですね。それが、発達障害者支援法の特色だと言えます。 ――親の方も、しんどい状況になっていると感じますが? とても、しんどいですよね。学校が安全管理で、とても防衛的になっていますから、ちょっと何かあると、「発達障害だから」と専門家のところに行かせて、校長責任から外したがる。私の知っているケースでも、入学式の日に友だちに一発パンチをくらわした子が、それだけのことで「医者の許可がないかぎり学校に来るな」と言われていました。そういう口実に医療が使われている。 実際には自分たちの安全のためであることが、集団の安全にすりかえられ、さらに、それが「その子のため」と、見事にすりかえられてます。 そういうなかで、親たちも追いつめられていますね。「発達障害なのに、ちゃんと対処していないから問題を起こすんだ」と言われないように、汲々としています。 人間、悩んだり苦しんだり、傷ついたり、ときにはそれちゃうことだって、あるわけじゃないですか。それを親の責任として追い込まれたら、きついですよね。これも個人責任論になっているわけです。

◎どちらが正常?

――ちょっと変わった子を異常視する見方がキツくなっているように感じます。 よく引き合いに出す話ですが、ある自閉症の子が中学2年生のときに、おばあちゃんが亡くなったんですね。葬儀のとき、その子はだんだん興奮してきて、とうとう自制がきかなくなって、棺のところまで走っていって、ボーンと棺桶をひっくり返して、転がりでてきたおばあちゃんの遺体にチュウしたりした。それで大騒ぎになって、まわりの人は「あんなに大事にしてくれたおばあちゃんなのに、自閉症の子は心が伝わらない」と言っていました。 その子は薬で寝かしつけられて、その後、1週間、部屋にこもりきりでした。もともとこだわりのある子ですから、学校に行くのも時間どおり、すべて何時何分に何をすると行動パターンが決まっていた。そういう子が1週間行かなかった。そうしたら、彼はその後、毎年、おばあちゃんの命日になると、そのとき着ていたパジャマを着て部屋に1週間こもるようになりました。それを17年間、ずっと続けていました。 診断基準からみれば、これは異常な固執性です。私のように、お通夜で涙を流しても、年々、忘れていってしまうことが「正常」とされていますが、私には、どちらが正常だなんて言えません。人間にはいろんな心根があって、そういういろんな人たちが集まって、人間の集団、文化をつくっているわけです。ところが最近では、個人の生き方ばかりが追い求められて、誰とどんなふうに生き合っていくかは忘れられています。心というのも、個人に閉じこめられたものではなくて、おたがいに生きあっていくなかで、関心しあったり、ときに罵りあったりしながらあるものでしょう。そういうところが乏しくなっていますよね。 学校も、そういう考え方を失ってきています。おたがいの心を察知できるような関係を取り戻していかないと、やばいところに来ていると思いますね。 ――ADHDについては、どのような見方を? ADHDに対しては、薬以外の話がないんですね。薬物投与によって、10人中4人くらいは、スッキリしたり集中できたりします。だけど薬を飲まないと大変な状況になったり、薬を使うことで、じょじょにベースの部分がしんどくなってしまうこともある。 そもそも多動というのは、たいてい十数歳になれば、自然になくなるんですね。しかも、薬を飲んでも効かない子のほうが多い。それでも、「だから薬はいらない」とはならず、次々とちがう薬を求めていっている。リタリンは一種の覚醒剤ですから副作用の問題もありますし、そういう認識が広まってくれば、治療のあり方も変わってくると思います。 一方で、医学的な認識によって、親が「ああ私のせいじゃなかった、しつけのせいじゃなかった」とラクになるところまでは、医学というのは、わりといいわけです。だけど、その後「あとは親が受けいれて、ほめてあげなさい」となると、これは、しんどい。 子どもへのしつけなんて、みんな変かもしれないでしょう。社会が変なんだから、大人も子どもも変だって仕方がない。しつけが良かろうが悪かろうが、病気だろうが、飛び出したり暴れたりすることを、なんでそんなに敵視するのよと、社会に返していけばいいわけです。それを、個人が重荷を背負ってしまうと、しんどいですね。 ――薬以外に発達障害に医療が果たせる役割は? ないと思います。何を医療と言うかですが、いま医療で出ている発想は、遺伝子組み換えか細胞移植で、人間をつくりかえるという発想です。あきらかに医療は行きづまってます。 西洋医学というのは、急性の変化に対する技術はすごいですが、長期に人間におこってくる変化に対する研究はしたことがない。 薬なんてのは、すべて対症療法です。たとえば歯が痛くて仕事できないとか、そういうときに仕方なく使うものでしょう。それだけに、誰の視点からみて薬を処方するかが大事ですね。当事者が必要として状況的に使うのか、まわりが行動を抑制するために処方するのか……。 ――発達障害は、いまの社会のあり方とも関わっていると言えますか? そうですね。たとえば多動について考えると、いまの社会では、決まったところで強制されたことをしないといけないわけです。多動の子の場合、自分の興味のあることは何時間でもやっていたりする。ところが、それはいけないとなると、動く。

◎自己実現?

さらに、いまの情報産業化社会は、これまでのようにモノの生産で人を牛耳るのではなくて、情報で牛耳ろうとしています。そういう社会では、自然的存在が許されないんですね。 たとえば携帯電話を例にとると、いま電話機自体はタダで手に入るでしょう? 20年前、これがタダだと言われたら、詐欺だと思いませんでしたか? 10万円だと言っても通じたでしょう。 ところが、いまや、この機械自体には価値がなくなって、大事なのは機能とメモリーです。壊れたら交換すればいい。 これが農業社会だったら、できた作物は、少々、できが悪かろうが、神さまから授かった大事なものです。工業製品にしたって、苦しい労働をへてつくった結晶だった。 完全に私たちの感覚は仮想的になっていますね。非常に錯乱した時代です。こういう考え方に慣れているということは、人間に対しても、同じ見方をしているということです。人間が生きていること、存在そのものよりも、その人のアイディアのほうが貴重になっている。実現すべき自己、輝くような自己がなかったら、存在価値がない。 情報産業社会は、人間を個人として自己抽出させようという考え方に立っています。そうなると、一割くらいの人をのぞいては、すごいキツイ社会です。 古来、親は子どもに、どうやって生きていくかを知恵を集めて伝えてきたわけですが、いまは、どう生きるかというとき、誰と生きるか、関係の問題に立ち戻らないと解決はないように思います。「自己実現」ではなく、「私たちが生きる」ということに視点を移し替えていく必要があるんだと思いますね。 ――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平) ◎特別支援教育 文部科学省は、障害児教育のあり方について、これまでの障害の種類や程度に応じて特別の場で指導を行なう「特殊教育」から、発達障害を含めた児童生徒一人ひとりの教育的ニーズを把握し適切な教育的支援を行なう「特別支援教育」へと転換をはかるとしている。昨年12月、中教審は特別支援教育を推進するための制度のあり方について最終報告をとりまとめ、今通常国会には特別支援教育法案が提出される見込みとなっている。(※2006年2月1日、2月15日、3月1日 Fonte掲載) 石川連載バナー ◎発達障害の個々の例の解説や支援方法は  2013年まで本紙で掲載中・石川憲彦さん ◎ニュース部門12′:最多アクセス「発達障害事件に思う」 ◎総合的にわかる「発達障害ってなに?」 ◎本紙のお申し込みは → 申込みページ