――ここは本当に素敵なところですね。自然に囲まれていて、とても落ち着きますよね。
私は、ここでの生活を、「自然と生きる。自然に生きる」と言っています。農林中央金庫のコマーシャルで「自然と暮らす・自然に暮らす」というのがあって、それをもじったんですね。
本当は、子どもが小さいときにこういう暮らしをしたかった。子どもと一緒に土にさわり、耕し、労働をともにするという生活をしたかった。それは、私の最大の痛恨ですね。離婚したときに田舎暮らしを子どもに提案したのだけれども、子どもにはすでに子どもの生活があったし、そのときはあきらめたんですね。
それでも長いあいだ、自分ひとりになってでも、実現したいと思い続けていた。それで五〇歳になったときに、土地探しをはじめ、三年かかって探しだしたの。
――この美術館をつくろうと思ったのはなぜですか。
五〇歳を越えてから手習いで焼き物を始めて、ここに工房と大きな窯をつくった。しかし、一人だけでやっていてもつまらない。仲間がほしいと思って募って、陶芸教室を始めました。それから八年半になりますが、そうこうしているうちに、地域に喜んでもらえることをしたい、地域おこしの役に立つことは何ができるかと考えて、美術館をつくろうと思いたちました。
この赤城山には一軒も美術館がなかった。お金はないけれども、そんな大きなピカソやマチスをおくような美術館でなくとも、個性的な、小さな手作りの美術館を、一字一字マス目を埋めて手にした原稿料を元手につくりました。
この美術館には三つのプレゼントがあるといっています。一つは、中高年の応援歌です。ここに置いてあるものはみんな、五〇歳をすぎてから手習いでやりましたから、あなたもやりたいことをやってみませんかということです。
もう一つは、こんなに美しい自然に囲まれた美術館は少ないですから、この自然ですね。鹿、リス、キツツキ、野ウサギなど動物もいっぱいいます。
もう一つは、群馬の人間というのは人情に熱いところがありますから、群馬人の人情を受け取って下さい。この三つしかありませんが、よろしかったら来て下さいということでやっています。この七月一日でちょうど三周年になります。
今では年間一万五千人ほどの方が来られるようになりました。
――中野区で教育委員をなさっていた俵さんが、陶芸家になられるなんて驚きですが、焼き物との出会いは?
あれはアクシデントなんです。本当はここで農業をしようとしていました。
しかし、五五歳のときに運転免許を取ったのだけれども、そのお祝いに陶芸をしている友だちが粘土をくれた。そのときに粘土にさわった感覚がなんともいえず、子どものときのどろんこ遊びのときの感覚がワーッと思い出されて、楽しくて楽しくて、やめられない、とまらない。のめりこんでしまったんですね。
そういえば、小学校のころは図工の時間が一番好きだったし、大学に進学したときも、本当は絵をやりたかったのに、戦後まもないころで、お絵かきどころのさわぎではなかった。そういう思いがずっとあったところに、粘土をさわって、よみがえるものがたくさんあって、引き返せなくなったのです。
――しかし、ゼロからどうやってプロになるまでを実現されたのでしょう。
はじめの三年くらいは独学でやっていました。NHKの『陶芸入門』を見たりね。ところが、独学には限界がある。そこで弟子入りして習おうとしたのだけれども、陶芸というのは力仕事でもあるし、女の弟子はなかなかとらない。どうしようかと思っているとき、熊本の高田焼きをしている窯元に女性がいた。その人が、私を弟子にしてやるという。熊本は遠いなと思いながらも、ほかにいないからしょうがないと思い、四年間、飛行機で通いました。
はじめは、趣味でできればいいと思っていたんですが、その先生が「自己満足のものを何千個つくっても上達しない」と言ったんです。「一個でもいい。売れるものをつくってみなさい」と。
それから本気になって、群馬に畑のかわりに工房をつくって、本格的にやり始めたんですね。
――物書きの仕事も一緒にされてますよね。
ちょうどいいバランスなんですね。字ばっかり書いていてもしょうがない。行動しては書く、というバランスが私にはいい。陶芸もやり、環境運動もやり、行動しながら考えて、それを書いていく。
――離婚されて、ひとりで田舎暮らしというと、一般的に見れば大変そうに思えますが。
離婚したのは四二歳のときでした。それは良いとか悪いではなくて、仕方のなかったことだけれども、私はその後、離婚しなければできなかった生き方をしてきた。たとえばここに住むことにしても、焼き物を始めたことも、美術館をつくったことも、こういう生き方は、相棒がいたらできないことでしたね。せっかく一人になったのだから、本当に自分の生きたいように生きようと思った。
よく「俵さんは一人だからこういうことできるのよね」とか言われるけれども、私にしてみれば、幸か不幸か一人になった結果、最大限にそれを活かしたら、こういうことになったというだけのことなんですね。
世間的に不幸といわれる状況に自分がなったとしても、そういう状況だからこそできることがある。私の生き方は、そうです。
たまには夫婦で同じという人もいるかもしれないけれども、生き方やライフスタイルがピタッと一致するということは少ないですよ。男でも女でも、相棒との調整という問題があって、なかなか自分の好きなようには生きられない。
ですから、一人だからできることはたくさんあるし、相棒がいないことのマイナスというのもあるし、どっちがいいとは言えないと思っています。
――本当にここで暮らすのが幸せという感じですね。
あるときお客さんに「俵さんは夢をかたちにするのがお好きなのね」と言われて、その通りだなと思いました。好きだからできるんだと思います。
命尽きる日まで、ここで絵を描いたり焼き物をしていたいですね。
――俵さんは、教育についてもいろいろ活動されたり、発言されてますね。
私は別に教育に関心があったわけではなく、新聞記者、ジャーナリストとして生活していました。
ところが、子どもが幼稚園のころから、これはおかしいと思い始めました。その幼稚園では、園長が有名小学校の名前とそこに入った子どもの数を並べ立て、試験のために補習授業を行ったりしていた。
私はそんなもの申し込まずにいたんですが、しばらくして、娘が「ママ、私やっぱりお残り勉強のクラスに入りたいの」と言う。「なんで」と聞いたら、「お残り勉強」しないで帰るのは二人だけだというんですね。一九六五年のことですが、当時すでにそういう状況があったんですね。そういうなかで私は考えるようになっていった。教育には何の関係もない人間だったのに、関心を持たざるを得なくなっていって、ジャーナリストとして、今の教育はおかしいということを書き始めたわけです。
しかし、やがてペンだけではダメだと思い始めた。ちょうどそのころ中野区で準公選の運動が起き、教育行政に親や子どもの意見を反映させようと、中野区の教育委員会の準公選第一回目に立候補しました。一九八〇年のことです。
このころ私は教育についてみっちり勉強しました。とにかく教育に関する本をたくさん読み、そのなかに大沼安史さんの本などもあった。
アメリカでは、すでに七〇年代にフリースクールやホームエデュケーションという考え方が確立していた。私も実際にロサンゼルスのフリースクールを見学して、いろいろ考えさせられました。あのころ、私の教育への考え方が変わったたように思います。それまでは、単に受験戦争を批判したり、競争をなくそうと考えていたのですが、そうか、オルタナティブな学校もあるし、フリースクールもある。ホームエデュケーションもあるんだ。何もそんなに学校にこだわらなくてもいいんだということが分かった。
――教育行政に住民の意思を反映させるということは難しかったでしょう。
とにかくものすごい結束で官僚は抵抗する。住民の意思を反映させるつもりなんて、そもそもない。そこに、住民代表というかたちで入って、村八分にあった。私は、あんなにいじめられたことはないね(笑)。
一番もめたのは、卒業式の祝辞のことです。祝辞を言いに行くときに、祝辞を書いた紙をわたされた。「こんなものいりません。私は自分の言葉でしゃべります」と言ったら、それはできませんという。祝辞は事務だというわけです。そこで私は「祝辞はハートです」と言い返した。祝辞は事務かハートかで大ゲンカになった。結局は役人的決着で「なんと申されても祝辞は事務ですからその紙はお持ちいただきます。ただし、お読みになるかどうかはご自由です」ということに。
これが大騒ぎになって、すべてのテレビ局と新聞が来た。私は「お読みにならなかった」。
日本の教育行政は中央集権になっているということが骨身にしみ、大きく変えるには中央から変えようと、中曽根さんが臨教審をつくったときに、即座に女性民教審をつくりました。奥地さんも含めて二三名ほど集まって、一七二項目の改革の提言を出しました。
反対するだけならたやすい。だけど、反対するだけの運動はしたくない。現実にどう変えていくか、対案を出す運動をしたいという思いがありました。
――ああいうことは、歴史上ないことで、あともないですね。
そうですね。女たちによる空前絶後の教育改革運動でしたね。
――五月に新宿高島屋で個展を開かれ、「え? ガン手術のあと、よくここまで」とみなさんが驚嘆されていましたが、いつガンと?
六五歳をむかえたとき、乳ガンになりました。そのとき、私も有限の命だったんだということに気づかされたのね。同時に、死ぬということについて考えなければと思いました。
――最初はショックでしたでしょう。
ガンだなんてまさに晴天の霹靂で、いきなり告知された。とにかく無我夢中で、気がついたらおっぱいが一個なくなっていたという感じです(笑)。
その後考え始めた。再発するかもしれない。転移するかもしれない。そのときは、もう死ぬなと思った。だから、死ぬということについて、考えざるを得なかった。
――その思いもかけない「不幸」、ガンである自分をどうやって受けいれていったのでしょうか。
受けいれざるを得ないですよね。不登校の子を持った親と一緒です。最初は強制的に直面させられた。そういう事態になってしまって、やがて、パニックが静まり、ショックがおさまって、いったいガンとは何なのかと、猛然と勉強し始めた。本も百冊以上は読んだと思います。
しかし、どう考えても死ぬことは怖いわけです。なんでこんなに死を恐れているのだろうと思った。だけど、西尾幹二さんが書かれていたように、人間は基本的に生きたいと思っている動物なんだから、死ぬのが怖いのは当たり前のことなんですよね。それを平然とにっこり笑って死のうと思ったって、できるわけない。
人間は想像力が貧困で、不登校の子どもを持つまでは不登校なんてことが自分にふりかかってくるとは思わないじゃない。それと同じで、自分がいずれ死ぬものとは誰しもが思っていても、今日の自分ではない、明日の自分でもない、と思うことでみんな生きている。死ぬということについて真剣に考えることができるのは、やはり死に直面したときなんです。私も、わかったつもりで、全然わかっていなかった。
ガンが再発するかもしれないと言われ、確実に死がやってくると思ったら、怖い。病院に行って検査するのも怖い。
ところがあるとき、正岡子規の「悟りをひらくというのは平然と死ねることではなくて、平然と生きられることだ」という言葉を読んだときに、ああそうかと納得したんです。平然と死ぬことなんてできない。怖いんだもの。けれども、明日死ぬかもわからないけれども、その一秒前まで、平然と生きることなら、どうやらできそうな気がする。
いろんな本を読むなかで、そういうふうに考えるようになった。また、そういうことをテーマに『癌と私の共同生活』(海竜社)という本を書きました。
――それは、ガンとつきあっていても?
そうです。死ぬ直前まで、今現在を、私は生きている。良寛が「死ぬ時節には死ぬがよく候」と言ったのも、なるほどなと思う。たとえ明日再発するとしても、私は、今日は今日の夢をしっかり見て生きたいと思っています。
――苦しみのなかでつかんだ重みを感じますね。もう一度新しく生きておられると感じました。貴重なお話をありがとうございました。(聞き手:奥地圭子)
俵萌子(たわらもえこ)1930年大阪生まれ。作家。
1998年7月1日、7月15日 不登校新聞掲載


