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	<title>Fonte</title>
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	<description>不登校、教育、社会問題を発信する新聞『Fonte』</description>
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		<title>Fonte No.338 Date. 2012.05.15</title>
		<link>http://www.futoko.org/fonte/page0517-2321.html</link>
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		<pubDate>Thu, 17 May 2012 09:26:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[fonte目次]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.futoko.org/?p=2321</guid>
		<description><![CDATA[１面　伝統的子育てで発達障害防止？
２面　「当事者の集い、始めました」
　　　連載「食べるいのち」
３面　連載「つながるオルタナティブ
　　　北海道」（函館）
４面　わが家の場合
　　　「感動のためのプロセス」
５面　子ども若者編集部企画
　　　「満喫不登校ライフ日記」
６面　弁護士・坪井節子さん
　　　講演「子どもたちに寄り添う」
７面　講演「子どもたちに寄り添う」
　　　連載「不登校の歴史」
８面　親の会情報、infomation ほか
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>１面　<a href="http://www.futoko.org/news/page0517-2318.html">伝統的子育てで発達障害防止？</a></p>
<p>２面　「当事者の集い、始めました」<br />
　　　連載「食べるいのち」</p>
<p>３面　連載「つながるオルタナティブ<br />
　　　北海道」（函館）</p>
<p>４面　わが家の場合<br />
　　　「感動のためのプロセス」</p>
<p>５面　子ども若者編集部企画<br />
　　　「満喫不登校ライフ日記」</p>
<p>６面　弁護士・坪井節子さん<br />
　　　講演「子どもたちに寄り添う」</p>
<p>７面　講演「子どもたちに寄り添う」<br />
　　　連載「不登校の歴史」<br />
８面　親の会情報、infomation ほか</p>
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		<title>伝統的子育てで発達障害を予防？</title>
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		<pubDate>Thu, 17 May 2012 09:24:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[ニュース]]></category>

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		<description><![CDATA[　5月1日、大阪維新の会大阪市会議員団が「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」などとした「家庭教育支援条例案」を5月議会にかけると発表したが、各方面から抗議や批判が殺到、7日には、発達障害の当事者団体などからの抗議を受け、白紙撤回した。一連の流れを受け、8日、大阪の不登校・居場所関連団体は「大阪市家庭教育支援条例案と条例・法律による『親学』推進に関する緊急アピール」を発表した。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　5月1日、大阪維新の会大阪市会議員団が「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」などとした「家庭教育支援条例案」を5月議会にかけると発表したが、各方面から抗議や批判が殺到、7日には、発達障害の当事者団体などからの抗議を受け、白紙撤回した。一連の流れを受け、8日、大阪の不登校・居場所関連団体は「大阪市家庭教育支援条例案と条例・法律による『親学』推進に関する緊急アピール」を発表した。</p>
<p>　大阪市の「家庭教育支援条例案」は、愛着形成の不足が発達障害の要因であり、それが「虐待、非行、不登校、ひきこもりなどに深く関与」、根本問題は「親心の喪失と親の保護能力の衰退」であり、「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」としていた。<br />
　辻淳子市議（維新の会）によると、条例案は埼玉県のもので、高橋史朗明星大学教授（親学推進協会理事長）から資料提供を受けたという。親学推進協会には、「長田塾」の長田百合子氏も特別顧問として関わっている。<br />
　条例案の白紙撤回を受け、高橋史朗教授は緊急声明を発表。条例案の白紙撤回について「混乱を招いた一部不適切な条例案のために家庭教育支援条例の全体を葬り去ることは将来に禍根を残す」との見解を示した。<br />
　高橋史朗教授は、今年4月10日に「親学推進議員連盟設立総会」（会長・安倍晋三元総理）に出席し提言も行なっている。議員連盟は超党派で81名が参加、「年内に親学推進法律の制定、政府に推進本部の設置、地方自治体での条例制定、国民運動の推進」することを活動方針としている。議員連盟には、民主党からは、鳩山由紀夫元総理、鈴木寛議員（議連幹事長）自民党からは、下村博文議員（議連事務局長）、義家弘介議員らが名を連ねた。<br />
　一方、すでに動き出している自治体もある。高橋史朗教授が教育委員長を務めていた埼玉県をはじめ、三重県、沖縄県、宇都宮市、名古屋市などでも親学推進の取り組みがすすめられている。埼玉県議会では2010年に船橋一浩議員（刷新の会）が、発達障害は「昔ながらの子育てによって予防できるとの研究がある」と発言していた。<br />
　これらの動きに対し、大阪の不登校・居場所関係団体は緊急アピールを発表。緊急アピールでは「問題は発達障害への無知にとどまるものではない。不登校、ひきこもり、虐待、非行など、子どもに関わる問題を十把一絡げに列挙し、その原因を『親心の喪失と親の保護能力の衰退』に求め、親への強制を伴う教育を謳っていたのだ。これは暴論と言わざるを得ない」と強く条例案を批判。この条例案が大阪市単独のものではなく、国会での立法化の動きがあること、各自治体での「親学」推進への取り組みが進んでいることへの懸念が示されている。</p>
<p>精神科医・高岡健さんのコメント<br />
　大阪維新の会が提案しようとしていた家庭教育支援条例案は「愛着形成の不足」が軽度発達障害などを誘発する大きな要因であり、それは「伝統的な子育て」によって予防、防止できるものだと位置づけた。<br />
　愛着は子どもにとっての「安全基地」のなかで形成される。多くの場合、親が子どもにとっての「安全基地」となるが、どのような親や環境のもとであれ、子どもが「安全基地」を獲得できることが社会の責務と言えるだろう。<br />
　この安全基地を「伝統的な子育て」によって形成しようとしているのだが、「伝統的な子育て」というのは、世界中、どこの歴史を紐解いても存在しない。<br />
　このような理屈で「愛着形成」を促そうとするならば、親・子双方の「安全基地」が脅かされかねない。</p>
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		<title>事件直後の大報道に懸念</title>
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		<pubDate>Sun, 29 Apr 2012 15:00:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[12年4月特集-浜田寿美夫さん論説特集]]></category>

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		<description><![CDATA[　長崎市で12歳の中学生が4歳の男の子を裸にして屋上から落として殺すという事件が起きた。4歳の男の子が迷子になり、屋上から裸で突き落とされて死んだという時点ですでに、新聞・テレビで大きく報道されたが、犯人が中学1年生だということになって、さらにマスコミあげての大騒ぎになった。私がそのことを知ったのも、学生が街でもらったといって研究室にもってきた号外によってだった。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　長崎市で12歳の中学生が4歳の男の子を裸にして屋上から落として殺すという事件が起きた。4歳の男の子が迷子になり、屋上から裸で突き落とされて死んだという時点ですでに、新聞・テレビで大きく報道されたが、犯人が中学1年生だということになって、さらにマスコミあげての大騒ぎになった。私がそのことを知ったのも、学生が街でもらったといって研究室にもってきた号外によってだった。<br />
　へエー、こういうので号外まで出るのかと呑気なことを言っていたら、さっそく新聞社から電話があって、コメントがほしいという。だけど私は号外を見たばかりで、まだ何も知らない。号外の記事を見ても、ただ犯人が12歳の中学生だったという以上の情報はほとんどない。どうしてこれだけの情報でコメントなどできるだろう。<br />
　大きな、しかもちょっと常識で解せないような事件が起こると、誰もが騒ぐ。それはわからないことではない。しかし考えてみれば、事件の発覚したその最初は、情報がもっとも少なくて、しかももっとも不確かなときである。そんなときに騒ぎが大きくなって、真偽の定かでないいろんな情報が渦巻く。それはいったい何なのだと考えてしまう。これまでにも渦巻く情報のなかで捜査が舵取りを誤り、その後の裁判や処遇に過誤をきたした例は、それこそ枚挙にいとまがない。<br />
　「まだ何にもはっきりしたことがわかっていないのに、犯人が12歳の子どもだというだけでコメントなどできませんよ」。そう言って、このところのマスコミ報道のひどさをひとしきり愚痴って、記者との電話は終わったのだが、翌日の新聞を見ると、いわゆる識者諸氏が目白押しに種々のコメントをしている。<br />
　びっしりと精密に描かれた絵にあらたに手を加えるのは難しいが、真っ白のカンバスに輪郭だけがうっすら浮かんでいる絵には、いくらでも手を入れて、好きなように描き上げることができる。しかしそこに描き出された絵は現実の正確な写実などではない。むしろそうして手を加えた者自身が、自分の心のうちを映し出した、いわば投影にすぎない。ところがそんな影を見て、まるでそこに実体があるかのように思う人たちがたくさんいる。<br />
　それから二日ほどたって、また別の新聞社から留守電が入っていた。「12歳の少年の心がどのようなものかを知りたくてお電話しました」という。私はたしかに発達心理学で飯を食っている。しかし「12歳の少年の心は？」と聞かれて、それを一般論で語ることなどできそうにない。なにしろ12歳の少年といえば、国内にかぎっても百万人を超える数がいる。そのなかの一人が、一見異様な犯罪をおかしたとして、それを年齢だけでどこまで説明できるだろう。逆にその一人を除く、それこそ百万を超える数の12歳の少年たちは、こんな犯罪をおかすことなく、その日常を生きているのである。<br />
　他方で、その後のニュースを週刊誌の見出し広告などで見ていると、あの12歳の少年の犯罪はあまりに特異だ、彼にはそれだけ特異なところがあったのだという目で、彼の過去が洗い出されているらしい。幼稚園、小学校時代の彼の言動があれこれと取り沙汰され、母親との関係から一見おかしげに見えるところが拾い出されていく。そのなかの一部はそのとおりかもしれない。しかし多くは、事件が起こったあとで、その事件につなげて拾い上げられ、事件色に染められた虚飾でしかなかったりする。思えば、少年が事を起こすまでは、それらの一切が実はいずれも彼の日常にすぎなかったのである。彼がその一歩を踏み出してしまった経緯は、そうそう容易に説明できることではない。　<br />
　今日も種々の扇情的なホットニュースが人々の心をとらえていく。私たちはなんとか心を冷ましておきたい。事が見えてくるのは、その後のことなのだから。</p>
<p>（はまだ・すみお）<br />
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。<br />
日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』（ミネルヴァ書房）、『「私」とは何か』（講談社）、『ありのままを生きる』（岩波書店）、『自白の心理学』（岩波新書）、『＜うそ＞を見抜く心理学』（NHKブックス）など多数。</p>
<p>※2003年8月1日　不登校新聞掲載</p>
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		<title>「理念」どおりにはいかない</title>
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		<pubDate>Sun, 22 Apr 2012 15:00:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[12年4月特集-浜田寿美夫さん論説特集]]></category>

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		<description><![CDATA[　おとなたちが教えようとしたことを、子どもたちがそのままに学ぶとはかぎらない。それどころか子どもたちはときに、おとなたちが教えようとしたことのなかから、それとはまるで反対のことを学ぶことすらある。教育の理念は、そうしてしばしば教育の現実によって裏切られる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　おとなたちが教えようとしたことを、子どもたちがそのままに学ぶとはかぎらない。それどころか子どもたちはときに、おとなたちが教えようとしたことのなかから、それとはまるで反対のことを学ぶことすらある。教育の理念は、そうしてしばしば教育の現実によって裏切られる。<br />
　いま中央教育審議会で検討されている教育基本法改正の問題のなかにも、そうしたすれちがいの危険性がひそんでいる。たとえば「国を愛する心」を基本法のなかに盛り込もうという議論があって、審議会の中間報告ではその点が明記された。「国を愛する心」を教えるということ自体についての問題は一応おくとして、その背後にもう一つの問題があることを見失ってはならない。<br />
　自分が生まれ育った土地やそこでの暮らしのかたちに愛着をおぼえるのは、ごく自然なことである。それを「愛国心」と名づけられると、私など抵抗を感じてしまうが、その点は別にして、ここで考えたいのは、それを学校で教えるということの意味である。<br />
　「国を愛する心」を教えるということで、まず考えられるのは国歌・国旗にかかわる教育であろう。じっさい1999年に国歌・国旗法が成立する前後から、学校の入学式や卒業式などの行事では、式場に国旗を掲げ、国歌を歌うようにとの指導が徹底されている。しかしそのようにして「国を愛する心」を育てようという理念が、現実にどのようなことを子どもたちにもたらすことになるのか。<br />
　何を対象にするにせよ、「愛する心」などというものを直接教えられるはずはない。それゆえその教育を理念として掲げたとき、結局はその「愛する心」を行動として表すことを求めることになる。現に学校ではすでに行事のさい、「国を愛する心」のあるなしにかかわらず、すべての構成員に対して、とにもかくにも座席から立って国歌を歌うことを求め、これを拒む子どもには強力な指導が行い、教師には処分を下している。ここから子どもたちは何を学んでいるのだろうか。<br />
　それは「国を愛する心」だろうか。いやそうではあるまい。子どもたちがそこで学ぶのは、むしろ学校の指導になんであれ「従う」ということ。つまり学校は表向き「愛する心」を教えているようでいて、じつは批判力の芽を摘んで、ひたすら「従う心」を教えているということでしかない。思えば戦前の国家主義もまた、国を愛する心の発露であった以上に、国家にひたすら従う精神を注入した結果ではなかったか。<br />
　「国を愛する心」を教えれば「国を愛する心」が育つなどという単純なものではない。言ってみれば当たり前のことなのだが、基本法改正を主張する人たちは、教育の場でのこの理念と現実のすれちがいを、どこまで真剣に考えてきたのだろうか。<br />
　同じことは、現行の教育基本法が一貫してうたっている民主主義の教育についても言える。戦後の学校教育は、子どもたちに自治活動を通して民主主義の精神を伝えようとしてきた数十年の歴史をもつ。しかしそこにおいて民主主義の精神は伝えられてきたと言えるだろうか。残念ながらそう思えない側面がいくつもある。じっさい、ほとんど学校では、生徒会にほんとうの意味での自己決定の権利を与えず、自治活動は学校側の許した範囲のなかで、一種の「民主主義ごっこ」として行なわれてきたのが現実である。そこで教えられているのは「民主主義の精神」などではなく、かえって「傀儡の精神」だと言えば、皮肉がすぎるだろうか。<br />
　教育基本法改正をめぐってあれこれの議論がなされるなか、私自身、改正などもってのほかと思いつつ、一方でこれを死守すればそれでよしとも思えない。教育基本法の理念をその理念どおりに実現するために何がなされなければならないのか。そこにこそ議論は向けられなければならないのではないか。</p>
<p>（はまだ・すみお）<br />
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。<br />
日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』（ミネルヴァ書房）、『「私」とは何か』（講談社）、『ありのままを生きる』（岩波書店）、『自白の心理学』（岩波新書）、『＜うそ＞を見抜く心理学』（NHKブックス）など多数。</p>
<p>※2002年12月15日　不登校新聞掲載</p>
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		<title>Fonte No.336 Date. 2012.04.15</title>
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		<pubDate>Wed, 18 Apr 2012 03:41:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[fonte目次]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.futoko.org/?p=2308</guid>
		<description><![CDATA[１面　自立援助ホーム開設
　　　　“次の一歩へ、生活できる場所を”
２面　わが家の場合
　　　連載「たべるいのち」
３面　論説「吉本隆明のひきこもり観」
　　　社会評論家・芹沢俊介
４面　書籍紹介『ゆっくりとラジカルに』、集会案内
５面　不登校経験者手記「私の場合」岡崎雄太
６面　「休刊危機、スタッフ緊急座談会」
　　　Fonteスタッフ3名
７面　スタッフ緊急座談会［２］
　　　連載「不登校の歴史」
８面　親の会情報、infomation　ほか
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>１面　自立援助ホーム開設<br />
　　　　“次の一歩へ、生活できる場所を”</p>
<p>２面　わが家の場合<br />
　　　連載「たべるいのち」</p>
<p>３面　論説「吉本隆明のひきこもり観」<br />
　　　社会評論家・芹沢俊介</p>
<p>４面　書籍紹介『ゆっくりとラジカルに』、集会案内</p>
<p>５面　不登校経験者手記「私の場合」岡崎雄太</p>
<p>６面　「休刊危機、スタッフ緊急座談会」<br />
　　　Fonteスタッフ3名</p>
<p>７面　スタッフ緊急座談会［２］<br />
　　　連載「不登校の歴史」</p>
<p>８面　親の会情報、infomation　ほか</p>
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		</item>
		<item>
		<title>「障害」として語る前に</title>
		<link>http://www.futoko.org/special/special-46/page0416-2288.html</link>
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		<pubDate>Sun, 15 Apr 2012 15:00:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[12年4月特集-浜田寿美夫さん論説特集]]></category>

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		<description><![CDATA[　最近やたらと「〇〇障害」とか「〇〇症候群」という目新しい障害名を耳にする。学校の周辺でもっともよく聞かれるのが学習障害だが、これはいくらか歴史がある。といっても日本で騒がれはじめてまだ十数年というところだろうか。それに最近のはやりが注意欠陥多動障害。いずれも曖昧なものだが、これをＬＤだのＡＤＨＤだの略語でいうと、何かしら専門的な気分になるらしく、やたらと頻発する人がいる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　最近やたらと「〇〇障害」とか「〇〇症候群」という目新しい障害名を耳にする。学校の周辺でもっともよく聞かれるのが学習障害だが、これはいくらか歴史がある。といっても日本で騒がれはじめてまだ十数年というところだろうか。それに最近のはやりが注意欠陥多動障害。いずれも曖昧なものだが、これをＬＤだのＡＤＨＤだの略語でいうと、何かしら専門的な気分になるらしく、やたらと頻発する人がいる。<br />
　犯罪の世界では、一見、理解を超えた種類の事件があると、人格障害とか行為障害とかいう用語が出てくる。これも最近の傾向である。アスペルガー症候群などのように対人関係の難しさをもった人々が、周囲の無理解のなかで犯罪行為におよんで、まるでこの症候群自体が犯罪の原因であるかのように報道されたこともある。<br />
　あるいはパニック障害とか、最近は社会不安障害などというものも、ことばとして、はやりはじめているらしい。私自身が大学の講義で「パニック障害のため」というような欠課届けを学生からもらって、あらためてこの種の「障害」の広がりようを意識するようになった。自分の意志ではコントロールできない強迫的な観念や不安・恐怖が「障害」の名で語られ、時に薬物医療の対象となっているのである。<br />
　こうした新来の「障害」名を聞くたびに、いつも私はなにかいかがわしさを感じてしまう。どうしてだろうか。<br />
　「障害」ということをめぐっては、それこそ何十年来の議論がある。一つには障害を克服し、あるいは軽減し、その人本来の発達可能性を最大限実現しようとの考えがある。これが発達権とか発達保障ということばで語られたのは、1960年代からのことである。障害をもつ者を差別し、我が身の周辺にあったときはそれをひたすら隠すというたぐいの旧来の在り方に対して、当時、これは画期的な考えだったかもしれない。しかし障害の克服・軽減、あるいは発達を眼目として、ひたすら専門的な手立てを求める発想にはやはり違和感がつきまとう。<br />
　もう一方に障害を個性としてみる見方がある。障害を克服すべきもの、軽減すべきものとしてみる見方のなかには、当の障害を抱えた人そのものを否定するニュアンスがつきまとう。実際、克服・軽減にも限度がある。にもかかわらずこれにこだわり続けるかぎり、障害は当人にとっていつまでも異物でありつづける。それは苦しい。ならば、むしろ障害をありのままに受け入れて、個性として引き受けようというのがこれである。主として当事者たちによって打ち上げられたこの考えは、いささか格好がよすぎるところもあるが、気分としてよくわかる。<br />
　人間には自由にならないことがある。それは知的障害とか身体障害とか視聴覚障害とか、あるいは精神障害とか、いわゆる福祉法にのっている「障害」が典型だが、もちろんそれにとどまらない。とりわけ人間のこころは不自由である。新来の「障害」はいずれも、自分でコントロールできない部分を問題にしている。しかしはたしてそれらをあらたに「障害」と言わなければならないものだろうか。「障害」と言うことでかえってその部分を異物として、自分の外に押し出してしまうことになりはしないだろうか。また安易な薬物治療は、まさに異物でもって異物を処理する、しかも中途半端なかたちで処理することにしかならないのではないだろうか。<br />
　人間のできなさ、あるいは不自由は異物ではなく、むしろその本体である。それをありのままに引き受けたところで、それぞれの人の生きるかたちがつくられてくる。そうだとすれば、人間の不自由を私たちがどのように捉えていくのかということこそが本来の問題であって、これを「障害」に帰するというのは、もっとも安易で、貧しい思想なのではないのだろうか。</p>
<p>（はまだ・すみお）<br />
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。<br />
日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』（ミネルヴァ書房）、『「私」とは何か』（講談社）、『ありのままを生きる』（岩波書店）、『自白の心理学』（岩波新書）、『＜うそ＞を見抜く心理学』（NHKブックス）など多数。</p>
<p>※2002年5月15日　不登校新聞掲載</p>
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		<item>
		<title>Fonteチラシを公開しています</title>
		<link>http://www.futoko.org/info/page0415-546.html</link>
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		<pubDate>Sun, 15 Apr 2012 03:00:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.futoko.org/?p=546</guid>
		<description><![CDATA[秋ですね。集会やイベントの季節です。Ｆｏｎｔｅのチラシ（PDFファイル）をつくりました！　ぜひ、不登校、ひきこもり関連の集会にて、お使いいただけたら、幸いです。
チラシのダウンロードはこちら。
http://www.futoko.org/wordpress/wp-content/uploads/2009/10/fonte-tirasi.pdf

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>秋ですね。集会やイベントの季節です。Ｆｏｎｔｅのチラシ（PDFファイル）をつくりました！　ぜひ、不登校、ひきこもり関連の集会にて、お使いいただけたら、幸いです。</p>
<p>チラシのダウンロードはこちら。<br />
<a href='http://www.futoko.org/wordpress/wp-content/uploads/2009/10/fonte-tirasi.pdf'>http://www.futoko.org/wordpress/wp-content/uploads/2009/10/fonte-tirasi.pdf</a></p>
<p><img src="http://www.futoko.org/wordpress/wp-content/uploads/2009/10/fonte-tirasi.jpg" alt="fonteチラシ" title="チラシサンプル" width="300" height="427" class="alignnone size-full wp-image-547" /></p>
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		</item>
		<item>
		<title>無年齢に生きている</title>
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		<pubDate>Sun, 08 Apr 2012 15:00:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[12年4月特集-浜田寿美夫さん論説特集]]></category>

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		<description><![CDATA[　大学で仕事をしていると、ときどき周囲の同年代の人たちから、「近ごろの若い人たちはどうですか」と尋ねられる。こうした問いにはたいてい、いまの若い人には自分たちの若いころとちがうところが何かあるのではないかとか、いまの若い人には自分たちに理解しがたいような何か独自の世界があるのではないかという含みが感じられて、いつもちょっと抵抗がある。それでつい、「そうそう、ちがうものではありませんよ」などと答えてしまう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　大学で仕事をしていると、ときどき周囲の同年代の人たちから、「近ごろの若い人たちはどうですか」と尋ねられる。こうした問いにはたいてい、いまの若い人には自分たちの若いころとちがうところが何かあるのではないかとか、いまの若い人には自分たちに理解しがたいような何か独自の世界があるのではないかという含みが感じられて、いつもちょっと抵抗がある。それでつい、「そうそう、ちがうものではありませんよ」などと答えてしまう。<br />
　思えば、子ども、若者、おとな、老人などと年代を区切って人をみる発想は、発達心理学にかぎらず一般の人々のなかでも根が深い。またその社会的な根拠もはっきりあるように思われている。しかし一方でこの発想によっておおい隠されてしまう事実があることについては、案外、気がつかれていないのではないだろうか。私自身、チェコ生まれの作家ミラン・クンデラの『不滅』という小説の冒頭で「無年齢」ということばを見つけてから、あらためてそのことに気づかされた。<br />
　スポーツクラブのプールでの一場面である。60歳すぎの年配の女性がただ一人プールのなかにいて、プールサイドの若い水泳の先生から泳法の指導を受けている。女性は滑稽なほどに真面目に先生の指示にしたがって練習をくり返す。そしてしばらくして練習が終わりプールサイドに上がった彼女は、別れ際に先生のほうをふりかえって、にっこり笑い、手を小さく振る。その仕草がまるで20歳の女性のものだったことに、「私」は異様なほど感動する。顔も身体も年相応に老いて、自分がもう美しくはないことを、もちろん彼女は知っている。しかしその仕草の瞬間にはそのことをすっかり忘れている。<br />
　クンデラはここでこう書いている。「われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識してはいないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ」。<br />
　じっさい私たちが歳というものをもっとも端的に感じるのは、身体の外見によってである。しかし幸か不幸か、自分自身の身体を外から眺める機会は、まさに例外的にしかない。いくら老いても、私たちはその老いた身体を内側から生きるだけ。身体をまだ自由に動かせているあいだは、自分が老齢の域にあること、あるいはその域に達しつつあることをほとんど意識しない。<br />
　現に私自身、大学でいつも20も30も歳のちがう若い人を相手に仕事をしていながら、ふだんはその年齢差をほとんど意識しない。それは気が若いというのとはちょっとちがう。大仰だが、同じ時代の空気を吸ってこの場を共有している感覚と言えばいいだろうか。<br />
　たとえば、ふとしたことで、気分が滅入って、なげやりになってしまうことがある。若い人のことを言っているのではない。たったいまの自分自身がである。不惑の年代をとっくに過ぎた自分が、まるで若造のように惑い、悩む。年齢を重ね、経験を積めば、人間として育ち、しっかり基盤を築いて、人生に惑うことなどなくなる……、なんとなくそう思われていたりするのだが、自分たちの現実をふり返ってみれば、それがおよそ根拠のある話ではないことに気づく。<br />
　時代の病理というものがある。その病理は、もっとも不安定な立場にいる人たちを、もっともひどく襲う。若く、まだ明日のかたちが見えないという年代もまた、その不安定な立場の一つ、とりわけ典型的な一つではある。しかし時代の問題を離れて、これを単に年代のせいにしてはなるまいというのが、発達心理学を専門とする私自身の自戒である。<br />
　人はそのほとんどの時間を無年齢のままに生きる。だからこそ問題を年齢とか年代とかに帰着させるより、むしろこの時代を生きるかたちの問題として、私たち自身に引きよせて考えなければと、あらためて思っている。</p>
<p>（はまだ・すみお）<br />
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。<br />
日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』（ミネルヴァ書房）、『「私」とは何か』（講談社）、『ありのままを生きる』（岩波書店）、『自白の心理学』（岩波新書）、『＜うそ＞を見抜く心理学』（NHKブックス）など多数。</p>
<p>※2001年10月1日　不登校新聞掲載</p>
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		<title>Fonte No.335 Date. 2012.04.01</title>
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		<pubDate>Mon, 02 Apr 2012 03:42:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[fonte目次]]></category>

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		<description><![CDATA[１面　いじめ、2年連続過去最多
　　　　2011年「人権侵犯事件」まとめ
２面　いじめ自殺国賠訴訟、結審へ
　　　連載「食べるいのち」
３面　論説「吉本隆明の遺したもの」
　　　精神科医・高岡健
４面　わたしの場合
　　　「私の宝物」水村由佳
５面　海坊主は実在する？！
　　　ＳＮＳへのお誘い
６面　映画監督・刀川和也さんに聞く
　　　「家族の中身ってなに？」
７面　刀川和也さんに聞く[2]
　　　連載「不登校の歴史」
８面　親の会情報、infomation ほか
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>１面　いじめ、2年連続過去最多<br />
　　　　2011年「人権侵犯事件」まとめ</p>
<p>２面　いじめ自殺国賠訴訟、結審へ<br />
　　　連載「食べるいのち」</p>
<p>３面　論説「吉本隆明の遺したもの」<br />
　　　精神科医・高岡健</p>
<p>４面　わたしの場合<br />
　　　「私の宝物」水村由佳</p>
<p>５面　海坊主は実在する？！<br />
　　　ＳＮＳへのお誘い</p>
<p>６面　映画監督・刀川和也さんに聞く<br />
　　　「家族の中身ってなに？」</p>
<p>７面　刀川和也さんに聞く[2]<br />
　　　連載「不登校の歴史」</p>
<p>８面　親の会情報、infomation ほか</p>
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		<title>まことに、みじめなことだ</title>
		<link>http://www.futoko.org/special/special-46/page0402-2282.html</link>
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		<pubDate>Sun, 01 Apr 2012 15:00:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>fonte</dc:creator>
				<category><![CDATA[12年4月特集-浜田寿美夫さん論説特集]]></category>

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		<description><![CDATA[　少子化の波が大学世代にまでおよんで、大学はどこも生き残りをかけ、さまざまの戦略を講じている。経営的な発想の明確な大学などでは、ずいぶん前から準備を整えて、いまではすでに新体制を確立させているところもあるが、一方で十分な対策を立てることができないまま今日にいたって、定員割れを起こしはじめた弱小大学も少なくない。聞くところによれば、大学を合格難易度でランクづける受験業界では、従来のＡ～Ｅランクに加えて、定員割れで受験すれば入れる大学をＦランクとする呼び方まで出てきたという。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　少子化の波が大学世代にまでおよんで、大学はどこも生き残りをかけ、さまざまの戦略を講じている。経営的な発想の明確な大学などでは、ずいぶん前から準備を整えて、いまではすでに新体制を確立させているところもあるが、一方で十分な対策を立てることができないまま今日にいたって、定員割れを起こしはじめた弱小大学も少なくない。聞くところによれば、大学を合格難易度でランクづける受験業界では、従来のＡ～Ｅランクに加えて、定員割れで受験すれば入れる大学をＦランクとする呼び方まで出てきたという。<br />
　私が勤務する大学も、一部の学科で定員割れを起こしかねない状況になって、遅まきながら、ようやく対策を講ずべく動き出した。おかげで、ふだん、あまりおつき合いのない受験業界の人々の話を聞く機会も出てきた。そうしたなかで、古くから言われてきたことでありながら、あまりの現実の重さのゆえに、いつもはほとんど意識の片隅に追いやられていることを、あらためて思い知らされることがある。<br />
　先日も、さる有名予備校の方々と懇談する場に立ち会わされた。そのときのことである。できるかぎり多くの受験生を呼び込みたい大学の関係者にとって、いまの受験生たちが何を基準に大学を選んでいるのかが気になるところで、おのずと、その点に話題が集まる。<br />
　受験業界のプロである彼らに言わせれば、いまの受験生は大学でこういうことを勉強したいといった具体的な目標があって大学を選ぶというより、むしろほとんどが感覚的なイメージで大学を決めている。だから、受験生たちのその感性に合ったかたちで個性化を果たすことが大事だという。一例をあげれば、最近は臨床心理関係の学科はおおはやりで、心理と名がつけば、それなりの受験生が集まる。それが、いまの子どもたちの感性にフィットしているのだという。<br />
　なるほど、そう言われてみればそうかもしれないとは思う。しかし、どうもそれだけでは、子どもたちの受験行動を理解することはできない。実は、子どもたちの感性をもっと大きく支配しているものがあるにもかかわらず、受験業界のプロたちは、あまりそこに触れようとしないように思えてならない。<br />
　実際、ここに二つの大学があって、ともに同じようなイメージの学科を持ち、外見上はその教育内容に大差はなく、立地や設備もほぼ同等に整備されているとして、受験生の志望がほぼ均等に分布するかというと、そうはならない。一方の大学は定員割れを起こしかけるという現実が、しばしば生じる。それはどうしてなのか。そこで効いているのは、やはりこれまで長年受験業界を支配してきた偏差値による大学ランクなのである。<br />
　大学の個性化などというが、せいぜいのところ、学部学科の名称やイメージをいじくる程度で、大学教育の内容までは、なかなか変わらない。それに大学教育の内実は、どれほど変わっても、受験生たちにはほとんど見えない。それゆえ大学のイメージの大半は、あいかわらず大手予備校が牛耳ってきた偏差値ランクによって決められているのが現実なのである。<br />
　偏差値は、もともと受験の際に、自分の実力で合格する確率がどの程度あるかをはかる物差しであった。しかし、いまはそれが大学のランクを決めるものになっていて、受験生の大学選びの基準になっているし、そのランクが、まるで合格者の人格のランクであるかのごとくに、学生たちの自尊心をくすぐり、あるいは劣等感をあおる。残念ながら、偏差値ランクなる魔物がそのようにして子どもたちの感性を支配し、私たち親や教師の気持ちをも捕らえてきた。それは、まことにみじめなことである。<br />
　この一事をみても、学校教育はいま大きく道を踏み外している。私たちにとって大学の生き残りの問題は考えないわけにはいかないが、しかし、その問題解決の方途が踏み外したこの道の延長にはないことも確かである。</p>
<p>（はまだ・すみお）<br />
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。<br />
日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』（ミネルヴァ書房）、『「私」とは何か』（講談社）、『ありのままを生きる』（岩波書店）、『自白の心理学』（岩波新書）、『＜うそ＞を見抜く心理学』（NHKブックス）など多数。</p>
<p>※2001年3月15日　不登校新聞掲載</p>
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